黄色いマグカップ

 私は毎朝、自分のコーヒーと半年前に他界した夫のコーヒーをいれることから一日が始まる。

 夫はコーヒーが大好きだった。家にいる時も仕事をしている時も、いつでもコーヒーを飲んでいた。マグカップにたっぷりとコーヒーをいれ、ちびちびと飲んでは空になるとまたコーヒーをいれる、カップの底が見えることがないくらいマグカップにコーヒーが入っていた。

 夫はコーヒーと名が付けばインスタントだろうが缶であろうが一向にお構いないしで、好きなわりには何のこだわりもなく「どんなコーヒーだろうが喜んで飲むのが本当のコーヒー愛好家だ!」と豪語していた。
 休みの朝、レギュラーコーヒーを煎れていると、香りにつられて夫が起きてくる。
「あ~良い香りだ、やっぱりちゃんと豆から煎れたコーヒーは美味しいなぁ」この時はミルクも砂糖も入れずにブラックで飲む。しかし自分でいれるのはインスタントコーヒーだけだ。
 夫のコーヒーのいれ方は、インスタントコーヒーとグラニュー糖をマグカップに入れ、お湯をカップ三分の一まで注ぎ、カップを回してコーヒーと砂糖を溶かす。それから七分目まで勢いよくお湯を注ぎ、続いて牛乳をカップ八分目まで足す。するとスプーンでかき回さずに美味しいコーヒーが出来上がる。一日に何杯も飲み続けてきた技ともいえるが、要は面倒くさがり屋なのだ。
 真似してみても、夫のように美味しいインスタントコーヒーをいれることができない。夫があみ出したインスタントコーヒーと砂糖と牛乳とお湯の量の絶妙な黄金比は未だに習得できずにいる。

 結婚して六年目、夫の誕生日プレゼントを選んでいると、五歳になる長男が「ママ黄色いのがいいよ」と指さした。丸っこい黄色いマグカップには大きな魚を先頭に小さい魚が三匹続いて泳いでいる絵があり、まるで私達親子のようだった。熱帯魚が趣味でもあった夫にはぴったりだとこれに決めた。
 七月七日、夫の誕生日に五歳と三歳の息子が描いたお父さんの顔の絵と黄色いマグカップをプレゼントした。
 夫は大喜びで、早速新しいマグカップに自分でインスタントコーヒーをいれ、たいそう美味しそうに飲みながら、子供達の絵を見て「ちゃんと眼鏡描いてるよ偉いな。でも髪の毛少なくないか!」と笑いながら眺めていた。
 それから十四年間、黄色いマグカップは割れることもなく夫の愛用カップとなっている。

 二〇〇七年夏、夫に癌が見つかった。
 長年吸っていた煙草は二年前から禁煙し、去年受けた五十歳節目検診でも異常はなかった。健康に人一倍自信があっただけに夫のショックは大きかっただろう。
 最初は肺癌を受け止めることが出来ず、他人ごとのように振る舞い動揺を隠していた夫に、私は不安や苛立ちを募らせていた。
 入院が決まりようやく癌と向かい合い闘う決心をした夫はとても癌患者とは思えないほど健康そうに見えて、少しだけ私をほっとさせてくれた。
 入院の準備をしていると「コーヒー持って行くからね。カップは黄色いのはやめとくよ!病院で割れたりしたら困るからなぁ」と夫が言った「まったくコーヒー中毒なんだから」私は早く良くなって帰って来てと願いながらインスタントコーヒーを密閉容器に移した。

 入院から二ヶ月半後、放射線と抗ガン剤の治療で、主治医が驚くほど癌は小さくなり退院となった。長い入院生活で体力が落ち、抗ガン剤の副作用で髪も眉毛も抜けて、見た目は随分老けて見えたけれど、生きる気力に満ちあふれていた。
 療養しながら二時間程だが仕事も始めて、夫も私も子供達もこれからどんどん良くなり、元気になっていくと信じていた。
 しかし退院から一ヶ月を過ぎた頃から頭が痛いと訴え始めた。二ヶ月通院したが病院の待合室で突然歩けなくなってしまい緊急入院した。
 癌は着実に夫の身体を蝕んでいた。痛みと抗癌剤の強い副作用との闘いで、次第に大好きなコーヒーを飲む事も無くなっていった。

 癌は、身体の自由を奪いながら広がっていき、強烈な痛みを与え続け、とうとう夫を寝たきりにしてしまった。
 夫は弱音ひとつ吐かず癌と闘い続けたけたが、痛みには勝てず、モルヒネを使うようなると、話をすることも出来なくなくなってしまった。
 泊まり込みの付き添いから十日目の夜、何にも言ってくれないまま、静かに息を引き取った。五十二歳の誕生日のちょうど一ヶ月前だった。 
 その時私は、愛する夫を失った悲しみは薄れることなど決して無いだろうと思った。

 人前では気丈に振る舞っていても、一人になると涙が出てきてしまう。二ヶ月三ヶ月と過ぎても夫との思い出が次から次へと蘇ってきて悲しみは増すばかりで、どうやって生きていけばいいのかわからなかった。
「泣いてばかりいるでしょう。ご主人はあなたの事が心配で天国に行けないでいるわよ。いつもあなたの側にいるのよ。しっかりしなきゃ!」霊感の強い友人が教えてくれた。
 私は友人の言葉を深く受け止め、夫の分もしっかり生きていかなくてはと少しずつ思えるようになっていった。

 半年を過ぎた今、悲しみは消えないけれど、夫へ感謝の気持ちを持って「貴方と結婚して幸せでした。二十年間ありがとう」と言えるようなになった。
 そして毎朝黄色いマグカップにコーヒーをいれて「おはようあなた、私あなたの分まで精一杯生きていくわ」仏壇の夫に話しかけている。 

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